2012年7月21日土曜日

滋賀県いじめ暴行事件に考える、いじめによる自殺、暴行、殺人が当たり前になってきてしまったように思う。

【定型文】 私は、小学校、中学校の時に、いじめの加害者にもなり、被害者にもなりました。加害の部分は、女子への容姿などを理由にした悪口や陰口などです。被害の部分は、小学校の時は暴力などです。1対多数になったことはないです。中学の時は、サブカル嗜好や運動面が劣っていることでバカにされたり暴力を受けたりしました。仲間はいました。

大学院の時は、修了に絶望して、自殺しそうになったことがあります。結果、留年を交えて、修了はしました。社会人の時にも、色々ありました。

この文章は、「いじめ」問題を語る時に、定型文として使っております。記事にしている問題に関する、私の背景を知ってもらうためです。理由のない興味本位じゃあないことを知ってもらうためです。

以下のニュースの引用部分に思うこと。

いじめ調査が始まったのは昭和60年度。全国で約15万件のいじめが報告されたが、「葬式ごっこ」をされた東京都中野区の中2男子の自殺が社会問題となり、「いじめ撲滅」の機運が高まった結果、61年度には激減した。

 平成6年には愛知県西尾市の中2男子が自殺。当時の文部省は、いじめの定義を見直して「事実を確認されているもの」という表現を削除し、「いじめられた子供の立場から見る」とした。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120720/crm12072020100027-n1.htm

昭和60年の頃は、覚えてませんが、平成6年の時は覚えております。私は、中学生でした。ジャンプでは、「元気やでっ」という、いじめ問題を取り扱ったマンガが連載されました。

 

それから後に、何度も、「いじめ」による自殺が度々起きていますが、その中で、「子どもが自殺する」、「子どもが子どもを自殺に追い込む」ことが、当たり前のようになっている風に感じます。

 

昭和60年の頃は、5歳くらいだったので、あまり覚えてませんが、中学の頃の、衝撃というのは、既に薄れていると思います。事実になった時の衝撃と、「あるもの」になった社会では、とらえ方が違うように思えるのです。

 

滋賀県の事件を考えた時に、当事者全体を含めて、社会の影響・・・を考えると、その辺りのことも、考えないといけないように思えました。